山村県議への弔辞
今回の自民党分裂騒ぎは私に代表質問という絶好の機会を与えてくれました。同じ2期で入院中の山村県議と連絡を取りながら、分裂をしていったグループには入らずに、残っていた結果でした。
こんな大事な自民党の危機という時に、分裂だ、出ていくだ、なんて言っちゃだめよ!
「何やってんだ!」と言われるだけだから動いちゃだめだよ!!と何度か小さいけれど、しっかりした声でアドバイスをくれた山村県議。長いこと政界に身をおいた人ですから彼の判断に間違いはないと確信して指示通りに行動した私でした。
山村県議との出会いは私が島田市立初倉南小学校で校長をやっていた時のことでした。
故原田昇左右代議士が突然我が小学校に立ち寄られました。島田カントリーでゴルフの帰り道で、「学級崩壊を見せて欲しい」ということでした。学級崩壊といっても、もう解決してしまってうちの学校では見られません」と申し上げたのですが、学校の日常を見てみたいと上がってこられてしまったわけです。
お茶を飲みながら伺った話では、「我々が見に行くというと、皆えらく準備して、いいとこばっかり見せようとして本当の姿を見せてくれない」と厚い唇のハスをとんがらかしてブツブツおっしゃっていたのを今でも鮮やかに思い出します。それで突然の訪問なのかと納得し、存分に国政への不満と学校の現状を話させていただきました。
「学級崩壊はどうしてなくなったのか」という質問に対しては「地域の方々のお力を借りるしかなかった。86人の地域の方々に先生になってもらって朝30分間の得意分野に関する授業をやってもらったり、読み聞かせをやってもらったり、学校と地域の連携でなんとか平常な学校になった」と説明したら大変に興味を持たれ、ずいぶん細かなことまで質問なさいました。
「一度それを見てみたい」と代議士が言っているので何とか調整して欲しいという電話をいただいたのは、その次の日でした。それが原田代議士の政策秘書山村利男氏だったというわけです。いろいろな国の資料もいただきました。国会で予算決算特別委員会に招聘され、地域と学校との連携について説明をする機会もいただきました。
「これからの学校にはこれが必要かもしれない。予算をつけてみよう!」それが政治家の勘ということだったのでしょうか。
地域と学校の連携、特に地域の人材を学校で活用するという流れは、その頃から全国に広がりを見せ、今では当たり前のことになってきましたが、きっかけは学級崩壊だったということですし、それを取り上げて広げてくださった原田代議士と山村秘書には今でも感謝しています。おかげさまで、ずいぶん教育関係の出版社から声がかかり、講演にも出かけましたし、本にも書かせていただきました。
私の教育活動は、彼らのおかげで1つの締めくくりができたと思っています。
太陽光発電でもネドの予算を使って学校の屋根にパネルを置いたり、公共施設を太陽光発電にする話を持ってきてくださったりで、子供たちの新エネルギー教育に力を貸していただいたのですが、その資料を用意してくださったのは山村秘書でした。あの元気のいい声で電話が来ます。「伊藤校長先生ね!代議士がこういう資料を送っておけということですので、これから送りますからね。御意見聞かせてください。」何回この声、この言葉を聴いたことでしょうか?「秘書ってこんなに熱心に現場の声を聞くものなの?スケジュール調整だけじゃないんだね。大変だね」なんて、国会議員や秘書の生活や仕事を知らない私達は、よく職員と話したのを覚えています。
実際、1年に1回、今までは一般質問(25分)が回ってくるくらいだったのですが、会派が小さくなれば、今までは40人で年4回だったのですが、20人と18人の2つに別れたため、会派ごとにできる代表質問(45分)の機会4回分が増えることになりますから、もしかしたら今までよりも質問ができるかもしれないと期待するわけです。月に一般質問をやったのに、同じ会派の山村県議が今回順番だったのですが入院中であること、私が期数が一番若いこともあって、準備時間が限られている難関を受けざるを得なかったということでもあります。
山村県議から代わりをやってくれという電話をいただいたこともあり、彼から預かった自殺対策と東名のインターチェンジの2項目を入れて1ヶ月間でバタバタと一気にやりました。
というのは、当局とのスリ合わせがありますから、1ヶ月とはいえ実質2週間というところでしょうか。来年の質問の準備を進めていたこともあって、質問項目は多く持っていました。が、困り果てたのは、今回の順番に当たっている県議たちが、ほとんど質問が出来上がっており、いくら代表質問優先とはいえ、もう、原稿が書いてあるものの邪魔をしてはいけないということがあって、本当にやりたい質問が2項目ほどできなかったということです。
それでも12項目できました。山村県議の心残りになっていた2項目もしっかり質問し、前向きの答弁をもらったことを彼に報告しましたら、かすれた声で「ありがとう・・・ありがとうね!」と2回繰り返して電話が切れました。
それ以後電話をしてもつながりませんでしたから、あれが最期の言葉になってしまいました。今でもあの声が耳に残っています。思い出すたびに涙があふれてきます。彼の無念さが私の心のおりになっているような気がします。これも私のこれからの活動の力にしていかなければなりません。駅前の彼の行きつけのおすし屋さんの珍しく呼び出しが会って、彼の夢、息子さんのこと、なくなられた奥様のことを聞かせてくれた日のことも、今は過去の記憶となってしまいました。
山村さん、本当にありがとうございました。今頃は私の持っていった見合い写真を見もせずに断るほど愛していらっしゃった奥様と御一緒なのでしょうか。




